SaaS開発ガイド【テナント編】

Software as a Service (SaaS) では、複数の顧客 (テナント) に対して単一のアプリケーションを提供することが一般的に行われますが、この状態をマルチテナントと呼んでいます。
本記事を通して、マルチテナントアーキテクチャ特有の「落とし穴」について入門していきましょう。
マルチテナントのアーキテクチャは複数ありますが、デプロイモデルの観点では
のように分けられ、それぞれにメリット・デメリットがあります。
プール型のようにデータストレージを複数テナントで共有する場合、アプリケーションの実装不備によって、テナント間でデータが意図せず混在したり、他のテナントのデータへ不正アクセスできてしまったりする可能性があります。
他のアーキテクチャでも同様です。例えばテナントごとにデータストレージを分けるサイロ型は、プール型に比べて安全だと思ってしまいそうですが、ストレージの公開範囲やテナントごとのアクセス権限を誤るといったリスクは常に存在します。
マルチテナントSaaSにおけるユーザーの認証・認可では、個人単位の識別や権限だけでは足りません。該当ユーザーがどのテナントに所属し、そのテナントにおいてどのような権限が割り当てられているのかを判断する情報 (テナントコンテキスト) が必要になります。
テナント間のデータ混在や不正アクセスを防ぐには、このテナントコンテキストに基づく厳格なデータ分離を設計段階から考慮する必要があります。
これにはデータベース固有のセキュリティ機能やID管理サービス(IDaaS)の活用も有効です。
例えば、代表的なRDBMSの一つであるPostgreSQLには、Row Level Security (RLS) という機能があります。RLSをテナントIDに対して有効化することで、データベース側でのテナント分離が可能になります。
プール型のアーキテクチャなどにおいて、複数のテナントが計算資源 (CPUやメモリ)、データベース接続、ネットワーク帯域などのリソースを共有することを考えます。このとき、あるテナントの利用量が急増すると、他のテナントのパフォーマンスが低下するリスクがあります。
このように、あるテナントが他のテナントのパフォーマンスに影響を与えてしまう問題を、「ノイジーネイバー問題」といいます。
このようなパフォーマンスの問題への対策としては、まずは負荷に応じて柔軟にスケールできるアーキテクチャ設計が基本となります。必要に応じてテナントごとのリソース制限 (スロットリング) の導入も検討します。
また、運用においては、テナントごとのリソース使用状況を継続的に監視し、異常を早期に検知することが重要です。
また、非常に利用量の大きいテナントのみ別リソースに切り出し、サイロとする方法も考えられます。この場合、後述のテナントオンボーディングなどにおいて複雑性が増すというトレードオフに注意する必要があります。
マルチテナントSaaSは、単一のアプリケーションを複数の顧客が使うことでスケールするビジネスモデルです。
しかしながら、SaaSを利用するテナントは、それぞれ独自の業務要件やブランディングに合わせて、UI、機能、ワークフロー、データ項目などのカスタマイズを要求することがあります。
これらのカスタマイズ要求に対してすべて答えようとすると、迅速な開発を阻害し、SaaSがスケールしづらくなる恐れがあります。特に、テナントごとにソースコードが別になるような設計をしてしまうと、SaaSのスケールメリットが大きく損なわれてしまいます。
カスタマイズ要求に対応しつつ効率的な管理を維持するためには、テナントごとのソースコード分岐を伴わない手法が強く推奨されます。
例えば、フィーチャーフラグ (機能フラグ) を用いることで、テナントごとの機能の分岐が可能になります。
また、料金プランによって使える機能が異なるような設計も考えられます。
その他に、APIを提供することで、顧客が自らSaaSの機能を柔軟に組み合わせて利用することができるようになります。より発展的には、SaaSがModel Context Protocol (MCP) に対応することで、SaaS本体のUIにとらわれず、ユーザーごとにカスタマイズされたAIエージェントがSaaSの機能を扱える、といった新しい潮流もあります。
新規テナントがSaaS利用を開始するためには、複数の準備項目が必要になる場合があります。
例えば、
などのプロセスが考えられます。これらのテナントの準備プロセスをテナントオンボーディングといいます。
テナントオンボーディングを毎回手動で行う場合、非常に時間がかかり、SaaSのスケールを阻害する要因になります。また、設定ミスなどのヒューマンエラーも発生しやすくなります。
テナントオンボーディングはアプリケーション実装よりも優先度が低く見積もられがちですが、スケールするSaaSをつくるために最も重要な項目の1つです。自動化可能な部分を増やすべく、設計当初から検討することが求められます。
テナントオンボーディングに必要なことを事前に洗い出し、スクリプト化やワークフロー化を進めましょう。テナント自身が設定を行える画面の提供も有効な手段となります。
サイロ型の場合でも、インフラ構成管理ツールを用いることでリソースの用意を自動化することができます。Terraform や CDK といった Infrastructure as Code (IaC) の利用が推奨されます。
マルチテナントという考え方はSaaSを提供する上で重要な位置を占めますが、本記事で見てきたように、データ分離、パフォーマンス、カスタマイズ、テナントオンボーディングなど、多岐にわたる特有の課題が存在します。
これらの課題は決して無視できるものではなく、サービス品質や信頼性、運用効率に直結します。
しかし、
といった取り組みによって、これらの課題を克服することが可能です。
また、最初からすべてを完璧に対応する必要はありません。SaaSのスケールに合わせて段階的に対応していきましょう。
本記事で解説した課題とその対策が、皆様のSaaS開発・運用において、より安全でスケーラブルなマルチテナント戦略を検討・実践するための一助となれば幸いです。
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